ペット

昔から人間は動物といっしょに住んできた。ある動物は食べ物として、一方、ほかの動物は人間の友達としてずっと私たちのとなりにいる。地球は人間のだけではなく動物のものでもある。

日本では「あきた」や「しば犬」など伝統的な犬がいる。韓国でも「ジンドッゲ(珍島狗)」という伝統的な犬がいる。実は、私の父と母の出身は珍 島なので子供の時からおじいさんとおばあさんの家に行くと、そこにいる犬と遊んだり寝たりしたこともある。そして、動物は私からすると家族だ。そのため、 いつも犬を飼いたいのですが、いもうとはアレルギーがあるので家で飼えない。だから、犬のかわりに家には観賞魚がいる。初めは五匹だけしかいなかったの に、今は三十匹以上いる。その観賞魚が私のあげるえさを食べるのを見ることは楽しい。特に、魚の子を見るのは生命について考えされられる。

私にとって、動物は家族だ。ただ、食べ物としている動物もいることをわすれてはならない。そんな理由があるので、動物に感謝の気持ちも持つべきだ。

根回し

根を動かす前に動かしやすくするために根を切って置くことだ。でも、ほかの意味は何か決めければならない時、公式的に決める前に、決めることだ。ビジネスや政治などことで使われる。

日本文化のキーワードに根回しということばがあるが、そのことばは日本をある程度表している。なぜなら、特定の場合にだけ使われるからだ。

根回しということばは特定的に使う。根回しといういみは何か決めければならないときの前に、非公式的に決めることだ。例えば、ビジネスや政治などの仕事で根回しする。

日本人は根回しをばあいによって使ったりしていると思う。

礼節

韓国はさいきん現代的になってきた。でも、まだ昔から続く伝統があるので今でもしらなければならないことがあるものだ。

韓 国は儒教思想が強いので礼節が大切だ。とくに、年長者と一緒にいる時、したほうがいいことがある。例えば、始めて会った時、けいごを使うことと例を言うこ とである。日本もそんなことがあると思う。ただ、私は日本語があまりじょうずじゃないのでけいごを使えなり。できるだけ使うけど、まだ難しいと思う。そし て、日本では本音と建て前もある。皆親切だと思っているがまだ本音か建て前か分かりにくい。日本の礼も韓国のと似ていると思っているんが、違うことがある はずだ。日本語とともに日本文化も勉強しなければ日本にいれないと思うほど大切だと思う。

日本で勉強するのは日本で生活することの意味もある。そして、礼にならないように文化の勉強もすべきだ。

『畳める』グッズ

日本の特別なグッズの一つで『たためる』グッズがある。『あためる』グッズという物は形が畳められるから小さくなり、そして限られたスペースを上手に使える。特に、日本ではスぺースを上手に使うのが大切だそうなので、『畳める』グッズが便利だと思う。武蔵境駅にあるイトーヨーカ堂に行った時、色々な『たためる』物を見つけた。例えば、畳まれている時は普通の小さな段ボールのようですが広げられている時は猫の家になるグッズもあった。しかし、畳めるグッズはだいたい複雑な作りなので壊れ易い弱いグッズもあった。『畳める』グッズはスペースを上手に使うためには便利だが、やはりできれば壊れ難い普通のグッズのほうがいいと思う。

カタカナはどう?

現代は世界化の時代だ。世界化というのは国と国の国境が壊されることだ。特に、経済の世界化が多い。経済の多い部分はテクノロジーだと思う。でも、テクノロジーは世界的なことなので、世界人が理解できる言葉を使うのが大切だと思う。今、世界が必要としている言葉は英語だと思うので、日本でカタカナの英語を使うのも無理もない。そして、日本での英語のイメージは異国的だと考えられるので、『新しい』や『かっこいい』というイメージを伝えるためにカタカナの言葉をよく使うそうだ。

日本語の書き方は特別だ。外国語が英語、日本語になる時カタカナを使うので、発音だけではなく意味も違うことがある。そして、外国人からすると日本で使っている外来語は分かりにくいと思う。日本語で同じ意味の単語があるけど、イメージのためにカタカナのほうがもっといいと思われる。日本語では意味が違うこともある。例えば、日本語ではお手洗いという言葉はよくバスルームと書かれている。

吉祥寺に行った時、ソフトバンクに入った。そこで、携帯がケイタイと書かれていた。携帯電話はテクノロジーなのでカタカナで書かれているのだと考えた。さらに、携帯はかっこいいイメージが大切なので、カタカナが使われると考えた。そんな気持ちがあるので、色々な単語がカタカナでよく使われると思う。ケイタイじゃなくてソフトバンクでは色々な英語の単語がカタカナで書かれていた。ほかの携帯電話会社,auとdocomo、も英語とカタカナの単語がたくさんあった。

現代は世界化の時代だと思う。そして、世界化ができない国はほかの国と比べて弱くなると思う。その理由である程度の外国語を使うのはいい事だと思う。でも、母国語も わすれないで大切にするのが必要だ。

クラブ活動

十月一日、私が入ったテニスクラブ、FOOTLOOSE, のトーナメントがあった。そして、友達といっしょにテニスをした。試合が二つあった。でも、全部負けちゃった。

トーナメントの後では新歓があった。ここで皆と話したり、飲んだり、した。とても楽しかった。

韓流について

私は韓国人た。ただ、子供の時から留学してきたので、韓国で韓国の文化を見るチャンスが多くなかった。でも、外国で韓流や韓国の文化を見たことはたくさんある。さらに、私の高校は日本の会社が建てた学校なので日本人の友達と韓国の文化について話したこともたくさんあった。アメリカへ留学した時はニューヨークのコリアタウンに行ったこともあるが、日本の新大久とくらべてぜんぜん違う。

 

日本に初めて来た時、自己紹介をしなければならない時があった。その時、私が「私は韓国人です」と言うと、韓国と韓国の文化について質問した人が何人もいた。質問しなかった人も韓国の歌手やアイドルなどについて知っていた。そのため、皆と話し易かった。日本では韓流がやはり流行っていると思う。

アメリカでも韓国の文化に興味を持っている人がいる。例えば、私の友達の中で韓国の音楽が好きな人もいる。でも、普通のアメリカ人は韓国を知っていたけど、韓国の文化についてはぜんぜん知らない。的外れな偏見もある。一番大きい偏見は韓国人は皆犬を食べると思われでいることだ。しきし、食べる人もいるが、一般的ではない。アメリカで有名な韓国の文化はテコンドーと韓国料理だ。今年の夏、アメリカの韓国大使館でインターンをした時、韓国の広報をする仕事がずいぶんあった。そこで、アメリカ人は韓国の歌手よりテコンドーと韓国料理のほうが興味を持つと考えていた。

授業で新大久保に行った時、韓国の文化を探した。やはり、日本では アイドルに関する商品が多かった。看板もニューヨークのコリアタウンのように韓国語であると思ったが、日本語の看板がもっと多かった。さらに、ニューヨークのコリアタウンと違って韓国人はすくなかった。ニューヨークのコリアタウンでは、九十パーセントの以上が韓国人だった。韓国の食堂のメニューも日本語で説明してあった。そのため、新大久保にあるお店のターゲットは韓国の文化に興味がある日本人だと考えた。

現代はソフト・パワーの時代だ。そして、国のイメージが軍隊の強さより大切だと思う。日本も昔からアニメと漫画などが世界に広がるとともに、日本を知る人が増えてきた。韓国も歌手やドラマによって外国でのイメージがよくなればいいと思う。

小さい秋

秋を迎えて、寮にやきいもがあった。とりあえず、火をおこして炭を入れた。炭が赤くなったからアルミホイルに包んだいもを入れた。30分ほど後に、美味しいやきいもになった! さらに、マシュマロやチョコレートやチーズも焼いて食べた。皆楽しい時間をすごした。

なぜ日本のお米の値段は高い

世界では国の地理と土によって食べ物が違う。西洋ではエネルギーを貰うためにパンを食べる。アジアではお米から作った食べ物をたべる。とくに、東アジアの国では御飯がぜったいに必要なエネスギーのもとだ。でも、日本ではお米の値段が高すぎると思う。この作文は、なぜ必要な食べ物が高すぎてしまうのかについての調査の結果だ。

 

一番目の理由は日本の地理の特性だ。日本は南北に長い島国だ。そして、日本列島の中には大きい平野が少ないので、稲作ができる土地が狭い。その理由で、農事のスケールが小さい。小さい土地の農夫は大きい農事の道具はぜんぜん必要ないので、お米の収穫量が少ない。また、色々な場所から来たお米があって、それぞれ特性がある。例えば、荻窪のスーパーマーケットに調査しに行った時、5つの以上違うお米を発見した。値段や味や生産地も違うお米だった。それで、値段が高くなる。

二番目は日本人の国民性だ。日本は愛国心が強いので、お米も日本で生産された米のほうが輸入した米より好きになりがちである。地産地消運動も例の一つだ。また、独立心も多いので、輸入する米はぜんぜん見当たらない。荻窪に行った時、外国から輸入した米は見なかった。野菜もだいたい日本で生産された物だった。

三番目の理由は外国から輸入する米をコントロールすることだ。例えば、輸入する米に高い税をかけることや輸入を規制することである。このようなコントロールの目的は日本の農夫をまもるために日本政府がしている政策だ。輸入する米や野菜がないので、日本の米と野菜の値段は自分で決めることができる。だから、一般的な米でも高くなる。

日本の農業の長所は農夫が守られていることだ。現代では農業でお金を稼ぐのは大変だ。安く輸入する農産物がたくさんあるから、国内農夫の生活が悪くなる。 日本政府がしている政策はそんな農夫を守るためである。

ただ、政策で守られることによって、農夫は生産を多くするための努力を続けない。だから、いつも、値段は同じだ。

日本の農業は農夫にはいいが、消費者にはわるい。 政府の政策と税のせいで、値段は高い。ただ、世界はFTAといったことをしているので、日本も農業を世界へ開放しなければ、競争力が弱くなるしかない。

Why are there small shops in Japan?

After reading the essay, “Why are there so many small shops in Japan?,” by James Mak and Shyam Sunder, I was given an opportunity to go to an area nearby Kichijoji Station where numerous small shops were situated throughout the labyrinth of narrow alleys. As the authors mention in the essay, the shops at Kichijoji were small in scale, usually about a room size. Usually, the shops were occupied by one or a couple of shopkeepers, who were pleasantly welcoming and helpful.

The purpose of the fieldtrip was to see if the essay is actually true in contemporary era. However, one aspect that should be considered is that the essay was written more than ten years ago, which fails to provide updated information. As one of the reasons why Japan has many small shops, the essay recounts that “limited storage” of average Japanese households and Japanese preference for “fresh food” are the main reasons. The small shop complex was located right by the train station, which facilitated easy and convenient access. However, it was not clear whether the small shops had fresher goods than bigger supermarkets. For instance, there was a shop that sells raw fish in the marketplace. The goods were in the refrigerator, but it was hard to define whether they were fresh. Considering that there were only handful people in the marketplace, it was hard to know how long the goods were on display, which would have been written on the label along with other information such as ‘best before’ at a big mart.

Small Japanese shops were protected by various measures by the government, which regulated the creation of mega marts. However, these measures started waning due to economic pressure from domestic and foreign conglomerates. Starting from Large-Scale Retail Store Law in 1991, the government initiated to deregulate the measures that prevented the creation of bigger stores. While I saw this as a retrospective step that may devastate the small shops, the small shops had their own way of surviving. The small shops have their history, heritage, tradition and the relationship with the clienteles. Especially the restaurants have their own specialties that cannot be found at mass food chains or mega marts. Even if it is the same miso ramen, each ramenya I have been to had their way of bringing out the flavor of the original ingredients. However, the retail shops at the small shop complex near Kichijoji sell generic products that can easily be found in any other supermarket. The only difference is that the goods at those small stores were more expensive. Therefore, as a sensible customer, I would definitely buy at a supermarket, when it comes to generically manufactured products.

One of the biggest things that stood out as soon as I entered the alley was that most of the shops were closed. Apart from a few retail stores, only cloth shops and restaurants were open. Considering that the time was one in the afternoon, I could tell that the shops were not in a good business. Cloth shops had designer clothes, usually by not-so-famous individuals. The style of cloths was rather different from mass-produced ones. At one store, it had Levi’s jeans from 1970s on sale, which could not easily be found at a retail shop. By differentiating and specializing through individualizing their shops, small shops in Japan still have their appeal against the big ones. But, if they start to lose their charm by stocking mass-produced goods, I believe small shops will lose their grounds in near future.

Big marts so-called supermarket is a symbol of consumerism, which is one of the biggest components of modernism. Ever since steam engine was invented, human race has been producing and consuming at a great rate. Contrastingly, small shops represent traditional era where village communities were self-sufficient. Japan has achieved modernization in such a short time. Some say Japan is going through post-modernist era. Thus, Japan did not have enough time to have a complete transformation from the traditional era to modernity. This means that tradition and modernity coexist in Japanese society, where small shops and big markets have to fight for limited number of customers.

In conclusion, the survival of small shops in Japan is not only a problem of the owners but an inevitable clash of two different eras of civilization. Economic pressure of modern era has been pushing down the small shops. However, as long as Japan combines the traditional charm and the convenience of modernity, as it has been doing in many other fields, it would be able to find a way to combine both of the elements—the point where both big and small shops are not mutually exclusive.

My advice for small shop owners is that they cannot survive without making an effort. This does not mean blindly selling goods at cheaper price. Rather, it is to find a way to preserve the charm of tradition and keeping it intact. Then, the customers would find something more valuable and worthwhile than just a cheaper price at a supermarket.