Category Archives: 大きなダック

Critical Thinking

ポケットの中に持っているコップ

日 本では、あまりスぺースがないから上手に限られたスぺースを使うために「たためる」グッズが発達している。一般的に、たためるグッズが便利だけど、 特に、限られているスぺースについてよく分かる日本人にはたためるグッズは大事な物なのではないか。そこで、武蔵境のイトーヨーカ堂という大手スーパーへ たためるグッズを探しに行った。

イトーヨーカ堂の四階に行き、そこで色々なたためるグッズを見た。以前、親しんだものも見たけれども、日本だけで見えるものも見つけた。その中に一番好きな物はたためるコップだった。そのコップは普通に歯ブラシと一緒だったが一つずつでも買える。

そ のコップはシリコンでできているわけでつるつるしていた。実際に、そのコップは歯を磨くことだけに使うものではなくて、一般的に水も飲める。びっくりするほど、安く て使いやすそうだ。また、ポケットに入れて持ち運べると思った。それで、コップの形もかわいくてさまざまな種類があるから、自分の好きなコップを選ぶこと ができる。

た ためるグッズについて考えると、アメリカでも人気が出るはずだ。なぜかと言うと、面白くて便利でもっと賢い物だと思われているからである。アメリカは 大きな国だからといって、限られたスペースを上手に使うことを学ばないわけではない。日本はとてもすばらしい国だと思わせられた。

立川の防災館

立川防災センターに震災の経験するために行った。センターで色々な情報をもらって大切な勉強になった。災害が来る前のじゅんびが分かって日本人に見上げている。その経験は本当に楽しかった。

自分の国でも、地震がよく来る。しかし、悲しいことは、日本と違って、地震が来る前に情報あるいはじゅんびがあまりないことだ。特に、地震についてあまり分からないから、立川に行くことになって、楽しんだ。

私達は授業から早く出って、立川に着いたときすぐこの建物について紹介するためのあるビデオを見た。そして、先生からも、その日の予定の説明をもらった。この場所で着いている間にどきどきした。地震が怖い災害だと思うからである。

最 初は、地震についてある映画を見た。その映画はドラマみたいに感じるけど、実際に私は少し感動した。それから、となり人の大切さが分かってきた。自分の命 を守ってから、次はとなりの人を手伝うべきである。映画を見た後、ケミカルから逃げるための経験した。4人で迷宮に入って火事からの逃げ方を習った。最後 は、地震 の体験をした。日本の一番強い地震は7震度だと考えてもらって、7震度の地震も経験した。みんな、4人ぐらいその台所に入って経験した。地震が来るとき、 一番大事なことは 自分の命を守ることだそうだ。

立川防災センターから本当にいい勉強になった。日本人はいつも地震が来るという気持ちを持っている。そしていつでも自分の命がなくなるかもしれないことを知っている分かる。そして、今まで日本の楽しいサイドだけを見て怖いのを見なかったことが分かった。

ミドリーベリのチーム

広告を調べに行こう!

東京で広告はどこでもを見つけやすい。吉祥寺に行って、さまざまな広告を見た。全体に広告の目的は商品やサービスを知らせるためにしている。日本の広告について調べたいと思って吉祥寺に行った。その調査は本当に面白かった。

調査した場所は三つだった。始めは吉祥寺の駅の中に一つ見つけた。秋のテーマがある広告だった。その広告のバックグランドは茶色にぬられていった。上に葡萄が書かれていた。大きな葡萄に目を引かれた。食べ物の写真を使って広告を見せるのは一つの戦略である。そして、大きな文字で情報も書いてあるから読みやすかった。見ると秋の旅行についての広告だと思う。その広告の社名は「びゅうプラザ」だった。その社名は広告の下に書いてあった。それは面白いと思った。私からすると、広告は駅の中で通っている人に見せて、行きたい気持ちにさせるものである。

吉祥寺の駅からちょっと歩いてかいだんを下りるとき、かべは広告で埋められていることに気がついた。その多くの広告の中で女性の写真が目に留まった。その女性は森の中に立って昔のことを思い出すような遠い目をしていて美しいと思った。その広告にはあまり文字がなかった。写真だけに大きなスぺースを取っていた。上記の広告と違って、もっと暗い色を使っていて明るくなかった。しかし、暗い特徴があったから、私は気がついた。それは、上記の広告とは違う面白い技法だった。下の社名を見ると、「JR」だった。私が好きな点は、その広告の表現が直接的ではなく、イメージで伝えていたことであった。また、その広告を見て、私もその場所に行きたい気持ちになった。ただ、かいだんを歩いている人達は次の目的地に行くことだけを考えて忙しいから、全然、その広告を見なかった。   

吉祥寺の駅を出て、外の空気のおかげで幸せになってきた。外を歩いたとき、大きな広告を見つけた。その広告は電話についてだった。面白いことに、かわいい子供が大人びた服を着ていた。それも、大きなめがねをかけ、左手で携帯電話を持っていた。ビルは殆どその広告でおおわれていた。そしてそれは子供の写真だったので、多くの人の興味を引いた。上記の広告と同じく、その広告も写真であまり文字がなかった。しかし、上記の二つの広告と違って、その広告は外にあり誰でも見ることができ、また、文字も英語だけを使っていた。その広告のモデルは外国人の子供で、日本の携帯電話の会社の「soft bank」や「docomo」などを宣伝していた。

三つの広告の特徴を説明して分かることは、日本の広告のし方はあいまいで写真だけを見ても、何についての広告か分かりにくい。そして、社名も小さい文字で書いてある。このことから三つの広告には共通点がある。まず、写真を使って広告の目的を表現する。その結果、文字をあまり使わないで見せる。また、人がいっぱい集まる場所で見せて、目をひくために面白い写真を使う。

日本でこのような広告を見ると、ほかの国と違って日本らしい広告だと感じた。それは、日本の人や文字のことではなくて、日本の文化によるものだと分かるようになってきた。日本は直接的な表現を好まない社会で、いつも言葉もあいまいな表現を使う特徴がある。つまり、日本の広告もそのような特徴を表わしている。

トトロのシュークリーム

今日の午後、トトロのシュークリームを食べた。本当においしかった。シュークリームは日本の伝統的な料理じゃないと分かっていても、本当かどうか理解できなかった。なぜかと言うと、そのシュークリームがトトロの形であったり、味も日本らしかったりするので、日本のおかしに見えたからだ 。インターネットで調べると、実は、シュークリームはフランスから来たおかしである。しかし、日本人がレシピを変更して、日本のおかしに作り変えた。そして、外国から来たパンも日本の食べ物として食べている。

文化が外国に伝えられるとき、その文化は変化する。特に、日本の文化の中にそのようなじょうたいがたくさんある。上記の例を一つとっても、外国から来た文化が日本で変化したものである。日本人は「和魂洋才」と言う言葉を使い、西洋の国の文化を日本の文化に会うように変化させながら吸収してきたそうである。

説明のために、食べ物を使いたい。面白いのは、アメリカのハンバーグの話だ。アメリカに住んでいるときは、ハンバーグを全然食べたくなかった。ハンバーグが焦げているとパンと食べても、おいしくなかった。ただ、牛肉をやくだけで、何も入れないのである。日本に来てから、ハンバーグが好きになってきた。日本のハンバーグはおいしかった。たいてい、ハンバーグはご飯のよこに置いて、さまざまなソースをかけておいしく食べられる。

一般的に、アメリカ人は料理を簡単に作るのが好きである。そのことから、アメリカ人は「めんどうくさがりや」と呼ばれる。アメリカ人はいつもなんでも、早めにやりたいから、もりつけはめちゃくちゃで、料理のし方も、時間をかけずに、インスタントで食べるのが好きである。その結果、フローズンフードに人気がある。どんなにハンバーグをグリルして時間をかけても、それ以上何にもしないから私にとって、味もそっけもない料理だと思ってしまう。

アメリカに旅行や勉強に行く日本人にとっても、私と同じ食べる問題があるかもしれない。たいてい、味をつけるために、アメリカ人はしおとコショウだけを使う。日本人にとってそれは、「シンプルテイスト」だと思うだろう。日本の料理はアメリカの料理より、色々な種類のソースなどを使って作る。だから、外国から来た食べ物にでも、日本人の口に合うように変化させてきたことに気がつくはずである。

日本の食べ物は伝統的な食べ物じゃなくても、すべて、和食と呼ぶかもしれない。世代のけいかとともに、外国から来た文化は変化してもっと日本らしくなっている。特に、日本の洋菓子は日本人の口に合うように変化していることに気がついた。例えば、トトロのシュークリームは日本らしく変化した物である。トトロという宮崎駿の映画から来た、キャラクターだ。そのパンの形はトトロの形であり、きれいに作ったパンの中に、マロンのクリームが入っていて、本当においしかった。パンを売る店も小さくて、トトロのテーマがあり、日本らしくて面白かった。

日本の伝統的な文化について考えた。私の意見は、日本の本当の文化は目には見えないと思う。つまり、日本の文化は日本のやり方だと考えている。例えば、今の時代に昔の着物は着ないが、服の着方を見ると日本人だと思う。さらに、行儀や話し方を見ると日本人だと分かる。それは、本当の文化だと思う。

日本のお米の値段を調べに行こうよ!

国分寺の駅に止まって、その場所に歩いていた。面白い町だと思った。15分後、マルイツというスパーを見つけた。外からスパーの写真も取ってお米と野菜の値段を調べに行った。

特にお米の値段は昔から高い。すすむほんだいという著者には日本のお米はどうして高いのだろうかという質問を調査するのは大事だ思った。その結果、日本のお米の値段について面白い作文を書いた。最初その作文から習ったのは、世界の国の中で,日本のお米の値段は一番高いことであった。それの理由はお米は日本の一日中食べた食べ物だというだけではなくて、昔から日本の政府は、規模の小さい農家を守るために生産されたお米の値段をコントロールしたことだ。その法律は「The Food Control Act of 1942」といわれていた。しかし、政府はそのことはずっとできなかった。どんどん法律は強くならなくて、1994ぐらいに、政府の規制も変ってコントロールが終わった。実は、アメリカなど国が文句を言って国際関係ためにも法律が変った。お米の高い値段は遠い将来安くなるかもしれない。しかも、近代に農民から都市の住民達に権力が移った。それで、おこめの国とはいえ、安いお米があるとはかぎらない。その著者の作文から上記の情報が分かるようになってきた。

政府が規模の小さい農家を守ることはいいと思う。先週宇都宮に行って、お米を取るのは難しいことが分かった。その仕事すると長い時間がかかって特に暑い日だったから、疲れやすかった。その経験から、農家を守るのは大切だと思った。今の時代は、農家というと、味もそっけもない数字を思い浮かべる人が少なくないようであるが、日本の政府が農家守るため法律を作ったという情報が分かって嬉しくなる。

宇都宮の旅行からお米を取ることだけ分かったが、お米の値段について、あまり分かりにくいかった。それで、国分寺に行ってお米の値段調べた。その経験から、高い値段に対して、実は安いお米もあることが分かった。例えば、一番安いお米の値段は10kgで2980円ぐらいだった。しかし、そのスパーで高すぎるお米もあった。

社会にとって、「ちさんちしょう」の生産は大事だと思う。文化ためにも、伝統的な作り方を使って農業を生産している農家たちは守らなくちゃいけない。規模の小さい農家のお米でも生産するともっとおいしくて健康のためにもいいと思う。しかし、経済も国には大切である。それで、政府は100%農家のための法律を作るのではなくて、経済や国際的な関係も守るためも考えていいポリシーを作るのは大切である。また、どこでものお米じゃなくて、日本では、日本らしいお米をたべている。それで、作文から習った文化のためにも大事なお米は日本人皆で守ることも大事である。

本当は、お米の値段の言葉は大変だと思う。農家も守って経済のため規模の大きい生産も守ったほうがいいと思う。最後は、政府のポリシーを作る時、さまざまのことについて考えながら、国の人達にいいことをしたほうがいいと思う。それで、国分寺と宇都宮などの場所に行った経験から、色々なことを見て聞いて面白かった。日本について作文でも読むことだけじゃなくて、本当の情報を集めるため、旅行すると勉強になる。

私も一日中ご飯を食べている国からきたから、お米のために生まれた問題も知っている。日本と違って、輸入したお米も消費している。自分の国に行く時、日本から習ったやり方などが有用になるかもしれないと思う。

違うものを見ている

The Great Big Duck of this age in Japan stands alone

As I walked through the narrow alley in Kichijoji, I was amazed by the small number of stores squeezed in a bundle. I walked haphazardly with no definite route or sense of pace. I peered into the different food places and noticed interesting things hanging down or placed outside.

Mak and Sunder explores the back and forth race of the government to protect the privately owned stores while at the same time recognizing the advantage of the larger departmental stores to the economy. Although Mak and Sunder’s article opens with a question as to why there are so many small stores in Japan, they are really deciphering the question of as to why these smaller stores are disappearing. Mak and Sunder responds to the question with “children and grandchildren…[having] no interest in taking over the family store.” and mobility to a larger stores becoming easier. Larger companies challenge the smaller retailers with cheaper prices such as Coca-Cola that sells at 39 yen. The main theme revolves around the disappearance of privately owned stores amidst the laws passed to protect them over the larger departmental stores that favor cheaper consumer prices and also import goods.

The article by Mak and Sunder notes that many stores in Japan are small and people consume smaller quantities. They make constant comparison to America in terms of the consumption style and also the mobility of people to purchase goods. They mention that “Japan has over twice as many retail stores per thousand population” compared to the United States. However, the fate of those smaller privately owned stores soon alters as big discount chain stores creeps in various places with an aim to reduce consumer prices and provide faster and varying degrees of services. The smallness of stores in general explains the lifestyle of Japanese families, such as “buying in smaller quantities” and consumption of “fresh food…which are especially important constituents of the Japanese diet.” The dependence on public transport and walking makes it more feasible for the existence of these smaller stores “built near train and subway stations.”

There is also much to say about the laws passed by the government. The laws try to curb the number of larger department stores but with little success. The emergence of foreign markets such as Toy “R” Us and Coca Cola has been exceptions to the law. Japan agreed to deregulate the “country’s distribution system.” This speaks much about the flaw of any government as to assuming that one particular step would curb a problem, but later realizing that indeed that one step can shake many other grounds and disturbs the intrinsic web in the society.

I am brought back to thinking about the little alley in Kichijoji, which stands as a symbol of going against the “modern ways” and still surviving. I realized that the modern markets aim for homogeneity and give a sense of familiarity as it succeeds to produce multiple chains of the brand in different locations such as 7-Eleven. However, one aspect of the many smaller privately owned stores that cannot be overcome is the interesting individuality and almost artistic element of it which cannot be mass produced. As I paced down the alley, I noticed a great big duck outside of a bar. I wondered why it was present there and yet it presented as such a scene that I found it comforting somehow. I was feeling very much part of every store I passed due to the closeness to those stores physically and the interesting individuality of that bundle. The markets will continue to grow and expand and those departmental stores will also begin to expand in various places, however, my only hope is that, there is some sort of co-existence between the two. And in some form, the little alley in Kichijoji represented that co-existence and I only hope that it further grows and feeds off each other instead of rubbing against one another.

The great big duck in front of a bar in the little alley in Kichijoji