和魂洋才

ある文化が外国に伝えられるとき、その文化は変化する。日本語の「和魂洋才」というのは外国の文化や物などを日本の社会に取り入れて、日本化するという意味である。昔から、日本は外国の文化を借りて、日本らしく変えがちだといわれている。たとえば、はじめに書き言葉は中国から輸入されたり、てんぷらはポルトガルから輸入されたりした。由来は日本ではないのに、そのような文化や物はそんなに日本的になったので、輸入されたと考えられていない。現在日本の文化は西洋から輸入されたものをまだ含んでいる。最近日本に紹介された文化はまだそれが生まれた場所に影響を受けているが、一方で日本にも影響を受けていることが分かるようになった。

私は日本に来て以来、そのようなものを見たことがある。たとえば、自動販売機は最初にイギリスで作られて、イギリスとアメリカではないところであまり使われていないものだ。ところが、今そのものは日本で発達されて、とても人気があるようになった。アメリカのと比べると、日本の自動販売機は種類が多くて、規模が大きくて、利用頻度が多いという傾向がある。たとえば、アメリカで温かいものを売る自動販売機があるが、規模が小さくて、建物内でだけ見つけられる。日本では、冬になると、どこでも自動販売機が温かいものを売る。また、その温かいものは飲み物とは限らない。いろいろな種類のものを売る。次に、日本で自動販売機の規模が大きい。アメリカで、ほとんど公共の場所に置いてあった。一方で、日本で自動販売機をどこでも見つけられる。道や駅や一般の建物にでも置くのはふつうである。最後に、ほとんどすべての日本人が自動販売機をよく使う気がする。日常生活の一部になったのだと思う。

それから、ほかの輸入された日本化された文化や物の例はジュースボックスということに気付いた。そのアメリカで生まれたものは厚紙でできたジュースに入っている容器だ。ストローで飲めるので、家にいないときとても便利な飲み物だと思う。先週はセブンに行った時、 通路を歩きながら、お酒を売っているところを見た。酒の種類がアメリカで売れたのと違うということにも気付いたが、もっと面白いことは日本らしいお酒がジュースボックスで売れたことである。それは日本に来る前に全然見たことがないので、びっくりした。その上、最もおもしろい点はアメリカでジュースボックスは子供っぽくものなので、お酒と関することだ。

最後に、とても簡単に見つけられる輸入されて、日本分化されたものはカタカナだと思う。どこに行ってもいろいろな言語から取り入れてカタカナになった言葉が見える。私は時々日本的なカタカナ言葉をみるとそれは本来の言葉より意味があると思うことがある。たとえば英語の「STROLLER]というのは日本語で「ベイビーカー」という言葉になった。一方で、カタカナの使い方について私は聞いた時ちょっと変だと思ったものは日本語である言葉の代わりにカタカナを使うことであった。欲もご飯やコメという言葉の代わりにライスという言葉を使えるものだと思うことがある。

日本語を勉強し始めた時から、日本の文化はいろいろな国の文化や物に影響を受けることが分かるようになった。時々日本は自分の文化があまりないと言われることがある。ところが、私の個人的な意見だが、日本の文化は外国に影響を受ける丈ではなく、日本の長い歴史や日本人にも影響を受けるので、その文化はもっと豊かで微妙な意味に溢れると思う。

夜9時に家カフェ

新しい環境にいるのは時々慣れづらくなるので、自分のリラックスする時間を楽しむのは必要だと思う。私は学校から戻ると、時々部屋で勉強したり、テレビ番組を見たりするが、一方で部屋にいたくなくなる。その時、いちばん好きな活動は喫茶店のような場所に行って、本を読んだり、音楽を聞いたり、もちろんコーヒーを飲んだりすることだ。そんな雰囲気は平和的だし、おいしいにおいがあるし、部屋で飲んだり食べたりできるが、喫茶店にいることによってうれしくなる。

日本に来て以来一番好きな勉強する場所

日本の米はなぜそんなに高いのか

その読み物によると、日本の政府は農業を守るために色々な規則を行った。そのような規則の目的は米の輸入を止めて、日本の米しか売らないということであった。その規則について初めて読んだ時、大変で日本の経済のために悪いと思った。そのような制度は経済を弱くする可能性があるとも聞いた。政府は現在に米の売りを広げることにしたのに、米の値段はまだ高いそうである。大きいスーパーや小さい店などで売れたこもの高い値段を見た時、よくも皆が買える物だと考えてきた。その上に、日本では土地が少ないので、どうやって輸入せずに日本の米の生産制度は米の売れ行きを足りるかと思っていた。

私はあまり経済について分からないのだが、生産者も消費者もいることが分かる。その読み物によると、米は日本人にとって日本の代表的な物の一つだと考えられている。また普通な主食物なので、現在に米売り上げが少なくなって、他の食べ物の消費が増えたのに、米はまだ日本人の食べ方のために大事だそうである。だから、日本の米の生産制度の隔離規則は農業を守る一方で、消費者には米の買う力が弱くなった気がする。毎日御飯を食べたら、米の買う規模が多そうであって、食費が高くなる気がする。一方で、農場に行く体験によって、農業の小さい規模を見たり、農家の日常生活を少し体験したりして、また日本人にとって米は大事なので、日本の自分の米の生産制度の守る希望が分かるようになってきた。とはいえ、長所も短所を比べると、米の生産制度を広げるのは一般に一番いい選択だと思う

農場に行ったとき、少ない土地を見て、米の刈り入れの難しさを自分で体験した。そのような仕事のためにすべての家族員が参加する必要がある気がする。田舎離れのせいで、そのような家族のビジネスを守るのは大変になるそうである。また刈り入れは機械を使っても、遅くする物だということ気がついた。でもそれは日本人的昔からの生活の仕方で、日本の文化を表すのでそれを守るのは大事気がする。その体験は私にもとても楽しかったと思ったので、そのような環境が少なくなるということは悲しそうだと思った。

しかし、輸入規則を問わず、田舎離れという傾向が増えたり、土地が少なかったり、米の売れ行きが多かったり、売れる米の値段が高かったり、昔からある生産制度を守る規則を続けるのはかなり無理な気がする。

私にとって、この状況は大変であるが、現状が社会のためによくなかったら、続けさせられない方がいい。輸入された米の規模が多くなったら、値段が下がったりすることは経済だけではなくて、消費者のためにいいと思う。