日本の小さい店

According to the class reading[1], in 1994 Japan had over “twice as many small retail stores per thousand population” and that “individual ownership accounted for 61%” of stores. In recent years the Japanese retail world has developed to include about five different kinds of stores in competition with each other: the individually-owned small store, the department store, the conbini, the discount store, and the mega mall. As these different stores have cropped up, they have threatened the success of the mom-and-pop store and Mak and Sunder seem to believe that their appearance on the scene is going to completely transform the touristic landscape by eliminating of these small stores. After going to Kichijoji, however, I feel that this premonition is an exaggerated fear and that these stores have a great propensity for coexistence.

Walking around Kichijoji, it occurred to me that there is a very obvious reason that there have been so many small stores in Japan, and that is space. Space is limited. The alleyways in which many of these stores are located are tiny, almost impossible to see at times, difficult to maneuver and PACKED with store space from start to finish. Sales per store – especially small restaurants, like the Ramen shop I ate in – are so low because in any given store there is only the space to serve five people at a time. There is a proportionately smaller space to house their merchandise, and just as small a space for the workers to operate from. The Ramen shop at maximum could fit three workers at a given time.

While the appearance of department stores and megamalls in Japan brings to mind the scary, and cultureless image of a giant sterile shopping center filled with chain stores and discount shops, I do not foresee this happening in Japan. Even now in Kichijoji I feel that there is a healthy mix of the old and new, the large and the small, and what these stores have to offer varies in more than price. I passed one small food store selling strange, fresh vegetables out of barrels. An old man was sitting on a stool in the center waiting for customers in his short pants and t-shirt. When people buy from him they are buying food and a feeling that cannot be achieved by going to Lawson’s or a supermarket. Small shops provide individual service – like the storeowner in the reading who walked upstairs to ask his wife the proper way to cook a bag of rice – and they also often provide fresher and more personalized merchandise. Just as in America discount stores are popular, there are still people willing to pay more at a regular retail or department store for higher quality goods. There is clearly a history of coexistence as well as a competition among business enterprises, small or large.

At the same time, it makes sense that the percentage of small stores is decreasing. As new actors appear in competition, a balance must be reached. Yet after seeing the environment of both small and large stores I do not think that reaching this balance, even at the cost of some small stores, is necessarily bad. From a consumer and tourist perspective, I appreciate that I can buy bananas at discount for 82 yen at Seiyu and bowl of tsukemen, priced at 1050 yen at a local Ramen shop. I could probably find it for less elsewhere, but I doubt that there the workers bang on their pots and pans and steam from the food still cooking rises right up in front of you.

Standing in Kichijoji it seemed to me to be an excellent physical expression of the old coexisting with the new: a large train station located both down the street from the Marui department store, and one or two blocks of small nameless food and clothing stores, most filled to bursting with patrons – albeit that meaning only five or six. Each type of store will never be able to replicate what the other store has to offer its patrons, and because of that I am convinced that small stores are in Ja


[1] “Why Are There So Many Small Shops in Japan?” by James Mak and Shyam Sunder

一番好きな日本の小さい店

日本には、アメリカに比べて規模の小さい店が多いそうである。私はそんな店は文化のためにいいが、他の店の種類の確立もいいと思う。

日本に来て以来、見付けた好きな店は国分寺にあった。それはお酒やおかずを出すバーである。従業員は二人しかいないが、その二人が客と友達だという感じがあった。読んだり、リラックスしたりしながら、食べたがる人がその店に来る気がする。

大きいバーや居酒屋はその店に比べて、商品が大体同じだが、雰囲気が全く違う。しかし、違うから問いって悪いとは限らない。大型店は雇用する人が多い意思、値段を安くするし、こんな店が多くなるに連れて、買い物が前より便利になって経済を支えるようになる。

小さい店は平和的な雰囲気や共同体感じを守るので文化のためにいいが大型店で従業員が多くて、商品の値段が小さい店より安いので、経済のためにいい。それで私に取って、店の色々な種類が共存するのは最もいいと思う。

大震災と防災館の経験

私はアメリカの北東から来たから、前々地震や大震災を経験したことが無い。だから、去年日本の大震災が起きた時、何もその破壊について理解しなかった。でも、兄が東京に住んでいたから、大変心配していた。情報がない場合で心配しやすくなると思う。その日、心配しながら、泣いていて、新聞で情報を探したのだが、その時私の地震の防止に対する印象は全く破壊だった。それは事実だが、一方で日本に来て以来、私の大震災に対する印象が変わった。

アメリカの火災防止

最初の日本にいる一週間を始め、その次の三ヶ月まで、小さい地震が良く起きた。その初めての地震は少し恐かった。何が起きるかと思って、震え(ふるえ)が悪くなるかどうか分からなかった。でも、物が落ちていなかった、何も破壊されなかったから、心配しなくなった。次の一ヶ月にそのような小さい地震を感じた時あまり気がついていなかった。実に少し面白い経験だと思ってきた。その時、私には日本の地震の防止や準備はアメリカの火災防止と同じだと思った。子供が小さい時、学校で火災があれば何をした方がいいかと言うことを教えられたが、その情報をあまり吸収しなかった。私は煙があれば、体を低くして、壁と近づきながら出てみることがもう分かった。でも、実は火災が起きたら、そのような方法を覚えるかどうか分からない。消火器(しょうかき)の使い方を全然教えられなくて、その上、他の人を助ける力があまり無い。そして、火災がアメリカで良く起きるのに、防止はあまり効果的ではないと思う。それと少し同じで、私の印象は日本人は地震の防止の基本が分かったのだが、もっと重大な物についてあまり準備していないと思った。

地震のまね部屋

それから、先週の防災館の経験があったから、日本の地震防止の印象がもう一度変わった。外国人の観光客がいることを見込んでいたが、ミドルベルーのグループだけがは外国人だった。その上、活動に参加している人は若い人も、お年寄りでもいた。そのため私は最初にびっくりしていたが、これから、最近の大震災のせいで、日本人は準備を大切にするようになったためだろうと思った。次はそのビデオがあった。ビデオは少しドラマチックすぎるだと思ったが、学生の主人公でも友達や家族でも地震が起きた時問題の向かい合う力がよくて、隣の人や知らない人を助けなくてはいけない部分をよく強めた。その二つの部分はアメリカの災防と違うことに気がついた。その上、学生がそんなに準備されているかどうか信じていなかったが、すぐにビデオで実際の震災防止の学生のグループを紹介したから、それは本当だと学んだ。これから、地震が普通の物だからといって、日本人はそれを気にしないとは限らないということが分かった。

日本に来る前に準備のし方

日本に来る前に私の日本の生活について期したが、実にどう準備するか考えないばかりではなく、知らなかったから、日本に来る時、生活に自然になれると思った。二ヶ月後はあまり準備しないのはよかったと思えてきた。

日本に来て以来、色々な面が思ったほど違ったのだが、準備の代わりに経験から学んでよかったと思う。例えば、日本に来るにあたって、よく日本語を勉強したり、少し文化について調べた。しかし、自然の日本語は勉強した日本語と違うに違いない。例えば、「上手」の代わりに「うまい」を使うこともあれば、その上「どうして」の代わりに「何で」を使うこともある。日本人と話すとよく間違うのだが、そのおかげで、会話できて、友達を作る機会がある。だから、日本語を勉強するのは絶対に大切だと思うが、それにしても、日本人から学ぶ経験は楽しくて、豊かだと思う。

実は最初に良く間違うのは悪いと思って恥ずかしい気持ちだった。しかし、自然に学ぶのはすごいということが分かるようになったから、次回旅行をするときは、もっと積極的に話したり、経験したりすることにした。

違い考えがある人と話すとしたら学ぶこと

私はこれまでに自分と全く違う考えの人と話したり、仕事をしたりしたことがある。その時に最も難しいのは賛成することのわけだが、その経験の長所というのはなぜある考え方を守るのか説明しなくては行けないのと自分の考えを細かく考えさせられて、良く分かるようになるということだと思う。
私は最近故郷に帰った時Aさんという友達と「いい友達である方法」について会話した。Aさんは大学で自分の友達には問題が会って、友達に相談されたと言っていた。Aさんの友達は何か(私にとって)悪いことをするつもりで、Aさんにアドバイスを聞かせてもらってほしかったそうだ。Aさんはアドバイスをあげないで友達に「何でもしたらいい」と言っていた。私にとっていい友達なら、まだ友達なのに悪いことをするつもりだったら、しないほうがいいするべきではないと言った方がいいと思う。Aさんの話を語ってから、一緒に論じた。賛成できなかったが、論じる間に、何かが実際に考えることについて考えさせられた。それで、私の考えがよくわかるようになって、他の考え方の長所も短所も学んでしまった。どのぐらい話したところで私の考えを換えさせることが出来なかったが、その経験によって、いい友達である方法について学んだ。
私の個人的な考えなのだが、全く違う考えがある人と話したら、もっと学べると思う。よくもそのような考えがある物だと考えると他の見地を考えたりするので、自分の価値体系を認めるようになる。それで、機会があれば、違う考えがある人と話したほうがいいと思う。

京都、ユッシャー!: 初めの一部

京都の旅行から戻ったばかりで、とても楽しかった体験だったと思う。五年前家族と京都にいったんだが、その経験をあまり覚えていなかったから、今の京都に行った時初めて体験のようだ。新幹線に乗るのは少し長い旅行だったが、京都に着いたと、眠い気持ちを忘れてしまった。

初めに金閣寺に行くことにした。その場所は公園のようで、お寺は小さい湖みの中においた。どこから来ても写真を撮る人がいた。その中で、学生が多かった。

金閣寺

私はお寺を見たととても偉い建物だと思った。本当に金石で出来たかどうか分からないけど、その色は太陽の下にはとても美しくて水に映された。観光する時、公園においたお守りの店でお土産のためお守りのネックレスを買った。幸福を守る力を持つはずだ。公園を歩いてから、抹茶とおかしが売る店で代表的なお茶を飲んだ。それから、少し時間があったので、百円を払って占いをもらった。色々な自動販売機で色々な言語で書かれた占いを買える。私の占いはだいたいよかった。占いより相談してくれる紙

占い自動販売機

だったから、アメリカの中国料理のレストランのような占いだったと思った。

その後は清水寺をタックシで見に行った。タックシ運転者はとても親切な人だった。私はタックシの地図を見た時特別なナチのように見える象徴が表れた。その象徴の意味があまり分からなかったけど、少し悪い韻書を与えられたから、運転者に意味を聞いた。運転者は具代的に意味を説明してくれた。その象徴は古い仏教のお寺の象徴だと言った。実に、ナチ象徴はそれと同じだが、ナチのは逆に書かれている。とても面白いと思う。その運転者も私と友達の日本語の話し方を褒めてくれた。運転者は私たちが外国人なのに、「です〜ます」体を使ったり、敬語の言葉を使うので、「美しい日本語」を話すと言った。

水汚染と環境破壊

現在、メキシコ湾では、水の汚染が大きな問題になっている。メキシコ湾で汚染によって大きな地帯は沿岸デッドゾーンになったのだ。その地帯で生命が存在できないようになって、環境破壊を増やす。

沿岸デッドゾーンの原因の一つは農業である。研究によると農業は現在もっと生産することにしたので、規模が大きくなった肥料の栄養素が雨で川に流されることにより生態系を破壊して、すべての生命を殺してしまうそうである。例えば、アメリカのミシシッピ川は農業の肥料によって160万トンの窒素がメキシコ湾に流された。その結果によって、メキシコ湾でマサチューセッツの大きさと同じ面積がデッドゾーンになった。その問題はそんなに複雑なので研究者でも解決できない。また、農業こそその問題の主な自由なので、一方で農業は経済や文化のために大切なので、問題の抑え方はとても大変になったことが分かった。

私は水の汚染を止めるために土地に捨てる物を引き受けなくてはいけないと思う。日本のごみを捨てる精度は防止するためにいいと思う。環境を守るのはとても大切なので、何かが出来たらいいに違いない。

 

たたむ商品

たたむ毛布

日本では土地が少ないから、普通のすむ場所は小さくて物をどこにも置けないほどだ。だから、「たたむ物」は日本で人気があるようになったそうだ。先週イトーヨーカドーで面白い日本的なたたむ物を探しに行った。そのようなたたむグーズを見付けやすいと思っていたんだが、実は多くなかった。一時間中三つたたむ商品を見付けた:レインコートと毛布と冬のジャケット。

たたむテーブル

そんな商品の中で共通の特徴があることが見える。服のような物でもソフトなたたみやすい物質から出来ている商品であるということだ。便利だと思うが、アメリカでもそのような商品を利用することもある。また、寮に戻ってから、少し他のたたむ物をインタネットで調べたし、服のような物ではない商品を見付けたが、日本でもアメリカでも売られている。たたむ物が人気があって最初に特に日本で売られて数年間前にアメリカで売られなかったかもしれな。しかし、今の時、たたむ物は世界中に広がった気がする。

日本の広告の特徴や類

私はもう二回日本に着たので、もう面白い広告の仕方に気付いたことがあった。新宿や渋谷などの場所では日本のテレビより生産質がよく見える大きい広告がある気がした。そのような広告は面白いと思ったが、それ以外の部分にあまり気付いていなかった。しかし、最近に吉祥寺に行った時、日本はアメリカと比べたら、ずいぶん違う広告を作ることが分かった。その上、日本で作った広告の中で色々な種類や傾向がある。

どこにいっても広告産業の目的は一般に同じだと思う。消費者は、広告の影響によってある商品を買ってしまうという目的だ。ところが、遂げるための考え方が全く違うように見える。アメリカの広告産業は会社中の競争を中心にしているが、日本では消費者の気持ちを導くことだ。アメリカでは広告は売りたい商品の長所も表せば、とかく競争相手の商品の短所も表しがちだ。日本の広告はあまり他の会社や商品を指さない傾向が見られる。また、色々な会社は一緒に広告することも見たことがある。例えば、吉祥寺に行ったとき、ケータイの広告があったが、すべてのケータイ会社を表していて、「自分の選択」という文が書いてあった。そのような広告はかなりアメリカで見ない。日本の広告は意味がある象徴や行為に商品の長所をよく伝える。そのような譲歩の伝え方はとても日本っぽいと思う。日本の社会では気持ちを表すためにあまり言葉を使わない。それで、広告はそんな方法によって消費者に会社や商品などの良さを信じさせる。日本らしく、売り方や競争はもちろん微妙で対立的ではない。私はアメリカ人として積極的な広告に慣れているので、日本の楽しくて可愛い広告は最初にあまり効果的ではないと思ったが、社会によって情報の伝え方が随分違う。今まで日本社会を少し体験したが、日本人はアメリカの広告にあまり引付けられないということが分かる。気持ちが厳しいだけではなくて、競争はそんなにはげしいので、消費者の信頼が弱くなると思う。

その上、日本の広告中に、商品によって広告の情報の表し方が違う。それは明白だと思うが、最近に吉祥寺に行った時、広告のスタイルの種類を詳しく見た。広告の中で、違い点はよく書き方だということに気がついた。例えば、とても有名な会社は広告で言葉があまりない。ボスというコーヒーを売る会社は最近にトミーリー・ジョーンズの写真を使うことにした。ジョーンズは色々なポースするが、広告はその写真しか無い。それから、もっとまじめな会社はまじめな消費者にアピールしてあげるために漢字をたくさん使う。可愛い文化や国際的なかっこよさはその会社に大切ではない。その会社の広告は「此の会社の能力を信じた方がいい」ということを漢字で伝える。次にファションと関係がある店の広告はローマ字をよく使う。ロマジはカタカナのように新しくてかっこいいみたいだから、その方法でオシャレなファションがあることを表してみると思う。また、外国人は良く買い物するので、ローマ字は英語を話す人にとって活動するのは優しいように見えるので気持ちが楽になると思う。

日本は消費者の国だと思うので、広告はそのような文化のためのとても大切な一部のだ。それで、日本の広告産業は良く発達されているように見える。私の経験から、広告を作る人は日本文化や社会をよく理解して、商品を売るためにその知識を適当に使うことが分かった。

外国人ではないと感じる経験

もちろん外国人でも白人でも、日本で生活して、日本人と違うところを認めさせられる。でも、数週間前にテニス部の新入部員パーティーで、外国人より普通の学生だという経験だった。みんなは一緒に飲んだり、日本語で話したりしたが、私が日本語を話すことをもう分かったので、ほかの会話をできたんだ。少し楽に遊べたので、本当にうれしくなった。