Year: 2013

六本木ヒルズ 森美術館 LOVE展

5月27日

六本木ヒルズ 森美術館 LOVE展

 

源氏物語絵巻(2005~2007  模写)

第三十六巻 柏木 一・二・三

第四十九巻 宿木 一・二・三

 

今回森美術館は60周年を記念し、「愛」をテーマにしてLOVE展を開けた。さまざまな形の芸術品のなかで、私は源氏物語絵巻の模写を見つけた。暗い部屋の真ん中で六つの絵巻が一紙の形で別々で額縁に入れて、全部ガラスのショーケースに入っている。模写は初めて見たので、模写の絵巻はそんなに古くに見えるのはすごく不思議だと感じた。本の画像のほうが鮮やかで綺麗でした。

 

柏木

一、朱雀院、源氏と女三の宮三人の気持ちは複雑であることは以下のところで表れている。主人公の三人の顔を互いにそむけさせる、俯瞰視点は高い、そして畳の縁と几帳は平行に描かれていない。

二、柏木が瀕死でも、冠をつけ、少し体をおこして夕霧を迎えている。目を閉じた柏木を見て、告白を終えて安心したことが感じられる。

三、薫の五十日の祝い。気になる所は、源氏を上部ぎりぎり画面の枠に押し付けること。この絵から、源氏の孤独を感じられる。

 

宿木

一、帝が碁を打ちつつ薫に結婚を勧める場面。

二、匂宮と六の君との三日夜の儀の翌日に寄り添う姿。画面は屏風と几帳で区切られ、右には匂宮と六の君で左は女房たち。女房たちは裳唐衣の正装を着ていて、左下の女房の視線はこちら側を向いている。先に右の新婚夫婦の姿を見て憧れの気持ちが出る時に、左下の視線に気づいて現実に引き戻された感じが出た。

三、匂宮は琵琶を弾いて、中の君は匂宮から顔をそむける。左には秋草が風に揺らぐ。そして御簾のたわみによって表わされた風が淡い物哀れを誘う。中の君の後ろ見のない結婚をしてしまった苦しみが表されている。

 

画面の表現以外に気づいたことは、服などの紋様。平安時代の文化の記録としては素晴らしいと思う。

 

これは「愛」がメインテーマの展覧会で、どうしてこの二つが選ばれたんたろう?と私は考えました。柏木が表したのは、(柏木の)許されていない愛、そして死ぬまで途絶えない愛。宿木が表したのは、夫婦の愛。

堂本兄弟番組協力

先週の火曜日に、フジテレビの湾岸スタジオにいきました。湾岸スタジオはお台場にあるので、寮から出発して約

一時間半をかけてスタジオについた。友達も応募したけど、ちょうど私と同じく一部の収録が当たりました。一部の集合時間は10時50分ですので、これのために一限の授業がある日より早起きした。

この日は三本撮りですので、出るゲストは分かるけど、どのゲストが一本目に出るのはまだ分からなかった。しかし、待ち合わせの場所に行ったらすぐ分かった。その理由は、ももいろクローバーZのファンがお揃いのコンサートグッズらしいパーカーを着てたことです。このことから、収録のゲストはももいろクローバーZとmiwaということを把握した。

スタジオの外に三十分ぐらい待たされて、ファンクラブ会員証や身分証などがチェックされた。その後、百人ぐらいの女の子がスタジオの待ち合わせ室に入り、収録の説明を受け、また三十分ぐらいをかけた。スタジオに入ったときはもう12時ぐらいでした。最初にステージに出たのはお笑い芸人さんで、スタジオの気分を盛り上げたから、堂本兄弟のメンバーを呼び出した。

最初はライブのステージで「堂本兄弟のテーマ」を演奏して、キンキの二人はゲストを呼び出した。

そしてみんなはトークのステージに移動し、トークの収録をはじめた。トークの内容はだいたい放送されたから略。(カットされた部分の内容を言いたいとしてもテレビ局から禁止されたらしい。)

禁止されたから他になにが言えるんだろう… とりあえずキンキの二人はカッコいい。ゲストのももクロも面白い。

これは私が撮った写真ではないが、スタジオの外で待たされたのはだいたいこういう感じ。

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日本の学校制服(冬学期期末レポート)

1.はじめに

 日本の学校制服は日本の文化の一つである。制服を着ることで日本人の強い連帯感が見られる。特に学生達が同じ制服を着て登校下校するのは日本独特な風景である。

 現代社会では学校制服の必要性と重要性に疑問が増え、学校制服の原因でいじめや登校拒否など現象もある。服装自由化は一体必要であろうか。このような問題に日本はどのように取り組んでいくべきであろうか。

 そこで、本稿では、日本の学校制服の定義、性能と歴史変遷 を分析したうえで、学校制服に関する問題の有効な対策について考えたい。

 以下においては、まず日本の学校制服の定義を明らかにする。次に、学校制服の歴史を分析する。最後に学校制服に関する問題の現状そしてこれついてどのような対応策がとられるべきかについて考えたいと思う。

 

2.学校制服の定義

2.1制服の定義

 制服の広辞苑での定義はある集団に属する人(生徒・警察官)が着るように定められた服装である。生田(1991)によると、制服の機能の特性は取り扱い性、耐久性、安全・衛生性、生理快適性、活動機能性、審美性、象徴性である。社会の心理では、制服を着用することには規律正しさ、団結心・集団への忠誠心、そして社会階層を目立たなくする、経済的軽減がある。

 

2.2 学校制服の定義

 学校の制服は一般的な制服と同じく、機能性と装飾性を求めている。学校制服の一番大きな機能は制服を着用する学生が所属する学校を表すことも言える。しかしながら、最近の何十年では変わってきた。

 今日では、多くの女子高等学校で制服のデザインの良否が新入生獲得の決め手になっていると言われる。以前には「管理の象徴」と捉えられていた制服観が、「自分を演出するファッション」へと変わった様子が指摘された。(難破, 2012)

 日本では、幼稚園から高校までは決めているところが多い。一方、大学では定められていない、あるいは定められていても着用義務がないそうである。

 

3.制服の歴史変遷

3.1 明治時代

 制服の始まりは1868年の明治維新からだった。最初は、男子の制服は軍服の洋装化。1870年代に、日本初の中学校と公立女学校の開設と伴い、男子の制服は陸軍のフランス式や海軍のイギリス式などになり、女子学生に男袴の着用が認められていた。それは女子制服の「男袴時代」だ。1880年代に、女子学生の袴着用は禁止され、「和装時代」の制服は洋装のバッスルスタイルへと変更した。

 1890年、女子学生の洋装制服は禁止され、再び「和装時代」へ戻った。一方、男子制服は軍事教練と黒詰襟制服でした。1900年代、東京女子高等師範学校にて通学服として紺の袴を採用した。そしてここから、女子制服は「女袴時代」に入った。1900年代後半、女生徒の運動服として、体操袴が採用された。1910年代では、東京女子高等師範学校にて体操服としてセーラー服が採用された。女子学生の制服は、改良服とセーラー服(体操服)という時代に入った。

 

3.2 大正時代

 男子の「軍事教練と黒詰襟制服の時代」はまだ続いていた。1910年代後半、平安女学院にて洋装制服として日本初のセーラー服を採用した。その後1920年代に関東大震災が発生し、震災の反省により、婦人の洋装化が進めた。このことが学生制服に与えた影響は、女子学生の制服がセーラー服へと変わり始めた。

 

3.3 昭和時代

 昭和時代から1940年代まで、男子はまだ「軍事教練と黒詰襟制服の時代」で、女子は洋装化と洋装制服一般化の時代だ。1940年代から第二次世界大戦が始まり、大日本帝国国民服令が公布された。その時、国民服が誕生、

その後は統制化された。

 戦時中には戦時体制が採用された。軍需品に素材を優先的に使用された。制服の用布は節約しなくてはいけない。このように戦時体制確立の動きの中で、女子生徒の制服が県単位で統一され、特にセーラー型が選ばれるようになった。

 1950年代、男子の制服は黒詰襟、女子の制服はセーラー服とだいたい決められた。50年代後期から、大学の服装自由化が始め、学校制服のファッション化も始まった。

 1980年代から、学校制服第1次モデルチェンジ 、スクールアイデンティティの導入でブレザー化が始まった。

 

3.4 平成時代

 平成時代に入ると、1990年代では第2次モデルチェンジを迎えた。着こなしバリエーションというチェンジである。このとき、DCブランド学生服がブームになった。

 2000年に入ると、ハイクオリティ&高機能学生服時代が来た。

 ちなみに2002〜2003年に、「なんちゃって制服」がはやった。「なんちゃって制服」というのは、服装自由の学校の学生が制服そっくりの私服を着たり、他校の制服で登校したりすることである。「なんちゃって制服」を選んだ学生達は、こうする理由を二つ挙げた。一つは「今しか着れない」だ。大学生になると制服を着る機会が大きく減ることになる。学校から服装の自由をもらっても、今しかできないことを体験したいという気持ちがある。もう一つは「服選びに悩まずにすむ手軽さ」だ。同級生の視線が気になる思春期であれば、趣味や経済水準が露わとなる私服選び煩わされるのは当然のことである。そして「なんちゃって制服」は服装選びにのストレスを軽減してくれるのだろう。学校制服は規則として決められているがゆえに、学生の服装選択の迷いを払拭する。

4.学校制服の問題

 現在の日本社会では、学校制服が決められた学校で制服を着ないといじめられることもあり、登校拒否や引きこもりになることもある。この問題についてもっと知るために、私は学校の図書館で関連の本を探した。その中で「中学生なぜ制服か」という本を見つけた。この本の作者は久世礼子で、作者本人が自分の本を学校に贈ったそうである。

 「中学生なぜ制服か」という本では、久世礼子さんは制服拒否を出張し、自分の息子と娘に制服を買わず、学校に行かせる。久世さんはこのことに三つのことを強調した。「第一に、親子の関係は、押しつけだけではない、という事である。」つまり、制服拒否は子供達に納得させたからしたことである。「第二、制服を教育問題としてだけ扱い、金を出す親の意向を無視するのは手落ちではないか、という事である。」自由でお金を使うことも子供達の価値観に影響するからのだ。「第三は、『皆と同じ』が、果して若い人達本来の意志であろうか、という疑問である。」久世さんは若い人の意志の自由を重視している。自分から「制服を着たくない。」と出張する人たちがいる。その少数者を、犯罪者のように、排除、または矯正しようとすることに、今の日本の教育の、最大の問題点があるのではないだろうか。

 久世さん長男によると、彼は友達に「わあ、めだちたがってる」と言われて、先生に「あなた、制服は?持ってない?まだ買ってないの?え、買わない?ええ、どういうこと?なんですって?」と問いただされたそうだ。先生の方は直接両親と談判し、自分自身が先生に呼びつけられるということはなかったけど、生活指導担当の先生に呼び出されたこともよくあった。自分が生徒会長に当選しても、「なぜ会長だけが制服を着ないのか」「皆が着てるんだから一人だけ着ないのはおかしい」といった意見が出てきたが、発言者の中に自分の親しい友人もいた。次女、三女によると、制服を着ないことはとても恥ずかしくて、しかし貴重な体験だ。

 久世さんのやり方は正しいかどうかははっきりと言えないが、親の主張の結果で子供達は良いとは言えない学生生活を送ったのは事実だ。

 そしてこの本の中でもう一つの例を見つけた。前女子学院長、大島孝一はこういった、「筆者が関係した中学校、高等学校の併設で、『服装規定』を廃止したとき、それは近隣はもとより、共通点をもつ他の学校のどこにも影響を与えることはなかった。… 一つ、奇異な反応として、ある女子校の校長が『そんなことをすると、あなたの学校から非行が続出しかないことになりますよ』という忠告ないし厭味を聞かされたことがあった。」大島さんは学校の「服装自由化」に力を尽くして学生と保護者に理解してもらったが、周りからそういう意見は少なくはなかった。

 この本を読んでから、私はいろいろを考えた。服装自由化は良いことかも知れないが、実行することには、個人的の行動も一つの学校の規定も周りから偏見を受けることが多い。学校制服に関する問題は服装自由化で解決することではなく、服装自由化も「問題」を起こすことだからだ。

 

5.おわりに

 日本の学校制服の百年以上に歴史を振り返ると、時代と制服のつながりが見える。今のこの時代の学校制服に関する問題を服装自由化で解決することは不合理である。

 学校制服は日本の特殊な文化の一つであり、社会問題を起こす原因ともなっている。これから日本はそうすべきか、私はこれからも学校制服について研究したいと思う。

 

 

参考文献 

生田正輝(1991)『ざ・ゆにふぉーむ』源流社

久世礼子(1984)『中学生はなぜ制服か』三一書房

難破知子(2012)『学校制服の文化史』太洋社

箱根第一日

どうして箱根第一日のレポは第二日のあとでアップしたのは… つっこまないでくださいねw

箱根にいって、花紋という温泉ホテルにいった。とても高級な感じで素敵なところでした。

(写真その一)

これはお昼ご飯の和室です。

(写真その二)

豪華なランチ!

(写真その三)

食事の あとのデザート。

 

(写真のアップロードはおかしい状態になったため、しばらく写真なしでこのまま… あとでやり直してみます。)

小学校の授業体験

 日本では、将来への大きなプレッシャーを感じながら毎日遅くまで塾に通う小学生がたくさんいるそうだ。Abe and Igawa (1997)によると日本では多くの学生は学校が終わった後に塾に通っているそうだ。その記事を読むと、日本の小学生はとても暗い生活をしているという印象を受ける。しかし、実際はどうだろうか?小学校の生徒をよく知る機会を持つため、ミドルベリーの学生は武蔵野市聖徳学園小学校で授業を教えることになった。

私は一年生の国語の授業に参加することになった。授業の担当の先生は内藤先生である。先週の木曜日に加賀校長先生からの連絡がきた。私が昼寝していたか電車にのっていたか、何回も電話がきたけどさまざまな理由で電話に出ることができなかった。今週の火曜日に私は加賀校長先生に電話をかけた。最初は加賀校長先生が出られなかったが、一時間後にかけ直したときにようやく話した。話した結果、火曜日の午後にミドルベリー大学の他の三人と一緒に学校に行くことを決めた。私が電話に出られずことは何回かあったが、校長先生はとても親切でした。

火曜日の午後に、聖徳学園小学校に行った。小学校は聖徳学園のキャンパスの奥にあるので、道を分からない私たちは学校の警備員さんに尋ねた。小学校についた私たち四人は加賀校長先生の校長室に行って、楽しく話し合った。加賀校長先生は私たちの趣味や好きな日本の食べ物を聞き、自分の趣味であるスキーについても話した。その後、小学校を案内してくださった。学校は終わったので、小学生たちはちょうど帰るところだった。聖徳学園の小学生は緑色の制服をきていて、とても可愛かった。私たちは教室や図書館や体育館などを巡った。教室で学生たちと挨拶するときに、「外国人だ!」と笑う学生もいったし、わざと外人っぽく「こんにちは」を言う学生もいったし、英語で「Hello」で挨拶する学生もいった。その後、私たちは校長室に戻って、加賀校長先生は授業の内容を再確認し、それぞれのクラスの担任の先生を呼んできた。

続いては個人面談の時間だった。私は一年生のクラスの国語の授業に参加する予定で、そのクラスの担任の先生である内藤先生と話した。内藤先生との面接の場所は授業する予定のクラスの教室であった。内藤先生は簡単に自己紹介をし、そして私に授業の内容について聞いた。内藤先生はまず、一年生と二年生の区別を心の片隅においておくことを教えてくれた。一年生と二年生の間はちょうど子供の成長期であるので、一年生にはいろんなことはまだ理解できないという可能性がある。したがって、楽しむことを勉強することより優先にするのは重要である。内藤先生によると、この授業は学生に何かを教えることより、文化の交流として考えらるほうがいい、そして内藤先生のクラスの生徒は私に日本の伝統文化の一部である百人一首をおしえてくれるそうである。内藤先生は少し自慢な顔でクラスの三分の一の学生は百人一首を全部覚えると言った。最初に自己紹介をするときに、中国を詳しく説明しても分かってくれないかもしれないので、自分の小学校はどんな学校や小学校でどんな遊びをしたなどを学生に説明するほうが分かりやすいというアドバイスをくださった。どの漢字を教えることに悩んでいる時に、内藤先生は授業の素読という習慣を私に教えた。聖徳学園小学校の国語の授業の最初では学生は必ず速読する。素読の内容は漢文や古詩などである。難しい漢字はたくさん使っているので、学生はその内容を全部読めるように頑張っている。意味は分かるかどうかを内藤先生に尋ねると、先生はまず音だけを覚えて、六年生ぐらいになると意味は分かってくると答えた。内藤先生は漢文を中国語で読むことを提案した。私も、これこそ私しかできないことと気付いた。読むことが決めた後、私はその漢文の中の漢字を教えることにした。旧字体の漢字も素読の教科書に使われているが、旧字体の漢字は読めるだけが要求されているので教える漢字にしないようと先生に言われた。これで、私は中国人として文化の交流に役にたてることとも言えるでしょうか。最後に、内藤先生はもう一度楽しいクラスの重要性を強調した。やはり一年生である学生たちには、楽しめるクイズやゲームなどを作る必要がある。

授業を教えるのは2月21日の予定である。私は国語の授業で学生と一緒に楽しい時間を過ごしたいと思っている。私が学生に漢字を教えるだけではなく、自分も学生から日本の文化を勉強する。これこそ文化の交流であることとも言えるだろうか。

 

 

「津田梅子とアメリカ」を読んで

津田梅子は日本の女子教育や女性の生き方に大きな影響を与えた人物である。津田梅子は1871年に6歳で渡米、アメリカの教育を受けた。帰国後、教育を通して日本の女性の近代化と地位の向上に力を尽くすことを生涯の課題として考え、1900年に「女子英学塾」を作った。梅子が目指したことは、女性が男性の知的、精神的な協力者になって日本の発展に貢献することである。津田梅子が考える女子の社会的地位を高めるための戦略は、何事によらず、あまり目立たないように、出過ぎないように、いつもしとやかで謙遜で、慇懃な態度を取ることである。

津田梅子は二十年近くの間アメリカで教育を受け、一方、日本の伝統的な価値観を捨てず、両方を大事にして現代の日本の女性の生き方を考えた。「文化的フェミニスト」と呼ばれた津田梅子が、アメリカの女性の生き方を日本の伝統に逆らわないように調整して日本の女性に適用させたことはとても賢明である。今の時代の日本では、女性が教育を受ける機会が多くなり、まさに津田梅子が出張した通りになった。現代の日本の女性も、津田梅子が言った「オールラウンド・ウーマン」を目指すべきだと思う。

箱根の二日目

ミドルベリーのみんなと一緒に箱根に行くの金曜日で、私は箱根で一泊して次の日(土曜日)にひとりで箱根のいろんなスポットに回った。

一日中に三つのスポットに行きました。彫刻の森美術館、ガラスの森美術館と星の王子さまミュージアム。

まずは彫刻の森美術館。

彫刻の森は美術館ですが、普通の室内の美術館と違って、室外で開放感があふれる公園みたいなスペースです。

まだ冬だから草などの枯れている様子はちょっと残念でした。

そして彫刻の森で私の一番のお気に入りはこれです。幸せを呼ぶシンフォニーです。軽めの高所恐怖症を持つ私はひとりで一番上までのぼるのはさすがに無理だった。一階しか上れなかったけど、良い写真をとりました!☆

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そして、ガラスの森美術館。

チケットを買ったときに

行った時はちょうど夕暮れ時ですので、光の回廊のクリスタルは夕日の中できらきらしていてとても感動した。

展示台からとった一枚。

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最後に星の王子さまミュージアム。

フランス風なミュージアムはとても可愛かった!小さなフランスの町を歩いてるような気分になった。

メインホールの中の展示も素敵でした。星の王子さまのファンである私はひとりで大盛り上がりwww

星の王子さまミュージアムのレストランのデザート。ブリュレとアイス。美味しかった美味しかった。満足♪( ´▽`)

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また箱根に行ってみたいな〜 今度父さんと母さんが休みをとて日本に来れるなら絶対一緒に行きたいです。

ヨーコーハーマーーーー❤

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もう三週間前の話ですけど… 箱根のあとに、横浜にも行ってきました!

横浜の夜景は本当に素敵過ぎる!!!もう、、、横浜大好き!東京より好き!日本で一番好きかも!

海に近いところでホテルで泊まったので、夕暮れ時にはみなとみらいでのんびり散歩してて、ああー本当に気持ちよかった!

ひとりだからちょっと寂しかったけど… (´・ω・`)

赤レンガ倉庫にも行った。赤レンガ倉庫はなんかすごく観光客向きで、いろんな売り店が倉庫の中にあった。

そしてその夜もひとりでホテルのルームの中で堂本兄弟を観ながらゴロゴロ… とても楽しかった。(๑ºั╰╯ºั๑)♡

そのホテルではレディースルームがあって、部屋からみなとみらいの夜景が見える!そこでゆっくり休んでた。

(そしてそのあとの一週間の忙しさについてはまったく話す気がない。てへ☆)

また横浜に行きたいな〜中華街とかまだ行ったことないからちょっと見てみたい。

横浜をアメリカのどこかに例えるならボストンって感じかな?ちなみにボストンも大好きです。

魯迅

中国の近代文学に一番貢献した作家と言える人は魯迅である。魯迅は小説家というだけではなく、翻訳家、思想家でもある。

魯迅の本名は周樹人。1881年に中国浙江省紹興市に生まれた。1892年に三味書屋という私塾に入った。1898年に私塾から離れ、江南水師学堂に入った。1901年に卒業し、1902年に日本に留学した。弘文学院で日本語を勉強し、二年後に仙台医学専門学校に入った。

魯迅は元々医者を目指していたのだが、学校であることがきっかけで作家にうつった。それは授業中に、日露戦争報道のニュース映画を観たことであった。その映画では、ロシア軍スパイの中国人が日本人によって処刑され、さらに同胞である中国人が処刑される様子に喝采して見物する中国人の姿があった。その情景と中国人の反応を見て、中国人を救うのは医学による治療ではなく文学による精神の改造だと考えたのだ。1906年に魯迅は仙台医学専門学校を退学し、東京で生活を始めた。同時に、作家活動を始め、「狂人日記」という被害妄想狂の心理を実にリアルに描写する小説を書き始めた。1909年に帰国し、中国で作家として活躍した。1918年に完成した「狂人日記」を発表し,当時の中国人に大きいな影響を与えた。

1936年に55歳の生涯を閉じたが、魯迅の作品は今でも中国人に影響を与え続けている。

Endless SHOCK

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昨日の夜は帝国劇場に行きました。堂本光一さんのEndless SHOCKというミュージカルを観ました。私的には、今度はファンとしてではなく、観客として観に行った。2階のA列のセンターブロックはなかなか良い席だった。実は何年前に一回DVDを観ましたから、ストーリーはだいたい覚えている。作品の中心は「Show must go on (何があってもshowを続けなければいけない)」という言葉。いつも他のファンの感想を見てすごいものだと思ったが、実際に自分観に行ったらそんなに期待したものまででは無かった。周りに泣いた観客も結構いったが、私にはそんなに感動しなかった。自分の感情を除くと、確かに素晴らしい舞台だと思います。ステージはとても派手で、歌もダンスも勢い強い。マジックや和太鼓の部分も驚かされた。

「Endless SHOCK」は「ジャニーズ関連のステージで最もチケットが入手困難な公演」「日本一チケット入手が困難な舞台」と言われているミュージカルである。そうだと言われているけど、この舞台はいつまで続けれるのは相当心配です。堂本光一が脚本や演出や作曲などに手掛かり、そしてなにより主演であるこそ、光一さんのファンは観に行きます。光一さんじゃなければ、こんなに有名にならないと思います。ステージは毎年進化し続けているとはいえ、実は私の考えでは変われるところはもう少ない。これは完璧の意味ではなく、このストーリーではもうそろそろ限界だと思います。これからはどうなるんだろう。