木版画は私の日本との出会いのきっかけであった。子供頃から深い興味を持っていたので、木版画の役柄をもっと詳しく分かるようになるために木版画の歴史を研究した。このレポートで、研究した情報と体験した情報を発表したい。研究と体験の結果から、木版画の役柄が変わったが、まだ現在の社会に有意義だということが見えると思う。
まず、木版画とは何だろうか。木版画というのは、日本の伝統的な芸術の一つでもあり、印刷する方法でもある。もっと詳しく説明すれば、木版画をする時、イメージの白くしたいところを彫ってあって、色をつけたところを残している。そして、その高いところの上に墨を乗せる。最後に、木の上に紙も乗せて、墨は木から紙に行く。そのため、イメージが作られる (Boyce 1996: 35)。また、木版画は西洋が使っている印刷する方法と比べると、ユニークである。なぜかというと、木版画は西洋の伝統的な印刷し方と違う特徴が二つあるからである。一つ目は機械を使わないことである。伝統的に、日本では、手や馬連という道具を使って、木から絵を作ることができるらしい。ところが、西洋では、伝統的な印刷酢するために機械(印刷機)を使うそうである。二つ目は油性の墨の変わりに、木版画で水生の墨が使われるらしい。西洋の伝統的な印刷し方で油性の墨が使われるそうである(Salter 2006: 13)。今、木版画のユニークさについて分かるので、少し木版画の歴史を探査したい。
次に、木版画の誕生について紹介したい。実は、木版画は日本の伝統的な芸術なのに、元々中国から輸入したそうである。当初、木版画の目的は中国からの仏教についてのイメージを広めるということだったらしい(Salter 2006: 14)。ところで、当時、木版画で作った絵には黒色しか使われなかったそうである。絵の中で他の色があれば、手で描かれなければならなかった。ところが、1740年代「見当」という方法が発明されたらしい。この方法を使う時、一枚の木片で一つの色を印刷する。そして、一つの絵の中でたくさん色が見えて来たそうである(Thompson 1986: 4)。このような黒色以上が持っている絵は錦絵と呼ばれている(Salter 2006: 15)。つまり、木版画は18世紀の前に存在したが、見当が発明され、使用が広まって、浮世絵が生まれた。
浮世絵はみんなが一番知っている木版画のジャンネルかもしれない。木版画は浮世絵という種類の美術を作る方法である。だが、全部の木版画で作ったものは浮世絵だというわけではないのである。浮世絵というのは木版画で江戸時代と明治時代で作った絵という意味である(Salter 2006: 13)。仏教についての黒い絵から、一般的な浮世絵までの道は面白い冒険であった。この道を少し歩き直したい。
初めに、木版画の絵はよく本と雑誌からのシーンを表して、本や雑誌の中で見られた(Salter 2009: 14)。なぜかというと、江戸時代に、町人の数が増加したからである。この町民にとって、読むのはビジネスのために必要だったので、読み物の要求も増加したからである。また、町民はお金持ちになったし、外国に行ってはいけないので、興行のための読み物の要求も増加したらしい。その前、ほとんど全部の読み物は仏教についてのものだったそうである(Thompson 1986:4)。ところが、浮世絵までは色々な変更をしなければならない。
次に、ある師匠のおかげで、浮世絵は本や雑誌という制約から逃れた。この男の人は菱川 師宣という浮世絵師であった。1618年に生まれて1694年になくなってしまった。菱川師匠は本の外で、一枚の絵を作って売って、この傾向は有名にならせたらしい(Salter 2009: 14)。また、当時、木版画は大切な方法であった。なぜかというと、大きい規模で再生産ができる方法だったからである。他の方法と比べて、木版画は安かったらしい(Salter 2006: 13)。例えば、一枚の木版から、絵を一万枚作ることができるそうである(Maxwell 1913: 64)。つまり、お金持ちだけではなく、一般人も浮世絵を見たり、買ったるすることができた。
次に、浮世絵は一枚の絵だけではなく、テーマも大切であった。17世紀の前、一般の生活には美術のテーマはなかったそうである (J.E.L. 1914: 2)。その後、景色や美人やイベントも浮世絵で見られる。また、1860-61年に横浜市では外国人とビジネスし始めた。外国人は横浜市しかビジネスできるところだったので、浮世絵師は横浜市と外国人や外国人の変な習慣など浮世絵で表したそうである(Thompson 1986: 5)。ところが、一番多い浮世絵のテーマは歌舞伎であった。特に、見得である。見得というのは歌舞伎の深い興味が出るところで、名題が特別な体勢をすることだ。そのイメージから浮世絵師は絵を作ったそうである(Thompson 1986: 6)。もっと大きい視点から見ると、浮世絵で基本的な概念は「見立て」と呼ばれているそうである。浮世絵の中で、「見立て」というのは、たいてい面白い感じで二つの逆のことを比較するという意味だったらしい(Thompson 1986: 22)。このテーマは人々が興行に興味があったということを表すと思う。
戦争は面白いテーマの一つである。政府は人々の支持が欲しかったから、合戦を勝つ時に浮世絵でその勝ちを表すイメージが欲しかったのである。つまり、人々はきれいで、日本人が高い価値観を持っている絵をみると、政府の戦争を支えることになったらしい。例えば、1839年に生まれた月岡芳年は1877年に西郷盛の西南戦争を表すイメージを作って、有名になったそうである。だが、芸術家はたいてい戦争に参加しなかったので、作ったイメージは事実をあまり映しないという傾向になったらしい。明治時代に日本は西洋に制度を取れ入れているのに、まだ満州で戦う時に浮世絵師は戦争のイメージを作るために満州に行ったそうである(Till 2008:36)。このテーマは政府が芸術に影響を与えることを表す。また、仏教の状況ように、木版画はまだ情報を広めるために使われていた。
20世紀に浮世絵がなくなって、国際的な木版画が表れたそうである(Thompson 1986: 5)。次の種類の木版画は創作版画と呼ばれている。創作版画と浮世絵と比較すると、違う時代に作ったというだけではなく、創作版画は一人で作るということは特別な違いの一つだそうである。たいてい、木版画は三人の連動だったらしい(Volk 2005: 5)。江戸時代と明治時代に、一つの絵を作るのために、三人以上は必要だったそうである。一人目は芸術家と呼ばれている。この人はイメージを描いた。二人目は彫刻家であった。木版を彫った。三人目は印刷者と呼ばれている。この人は一日に六百から一千二百ぐらい刷を印刷ができたらしい。他の大切な人は生産者であった。師匠を集まったり、準備したり、絵を売ったりした。また、馬連や紙などを作る師匠もいて、絵を作るために大事であった。ところで、芸術家や生産者だけ有名で、今名前が分かる (Maxwell 1913: 64)。それから、浮世絵は創作版画になった。このジャンネルはもっと国際的で、テーマが違って、一人で絵を作る。
最後に、木版画に関する体験を紹介したい。このレポートの目的は元々の木版画について習うことが、現在の木版画しか体験したことがない。経験したのは木版画が,簡単に言えば、二つの種類になったことだ。一つ目の種類は昔からの伝統の良さを受け継ごうとすることだ。二つ目の種類は創見を中心していることだ。この最後はMaxwellの総則版画と似ていると思う。ところが、現在に種類の木版画が二つあるということは事実ではない。本当にもっと複雑である。なぜかというと、この種類はいつも編み合わせるからである。自分の経験を使って、日本で木版画の現在の絵を描こうとする。
一つ目の現在の種類の木版画は昔を振り返るということだ。この種類を経験したことがある。おととしの夏に母と一緒に日本に来た。母は木版画を学んでいる。そのため、私達は木版画に関する観光をする機会があった。私達が行った所の一つは京都であった。色々な京都にある木版画に関する画室や美術館などに行った。一つ目の画室はきたむらそいち師匠の画室であった。この男の人は彫り方と印刷し方ができる。ところが、日本は伝統的なところなので、一つだけを選ぶことができた。そのため、日本にいると、きたむらさんは彫刻家として働くことができる。しかし、師匠ほど印刷ができるのに、日本では本当の印刷者ではないと説明してくれた。
きたむら師匠と昔の彫刻家とほかの違いは生産者のために働かないことだそうである。その代わりに、きたむら師匠はたいてい外国人の芸術家のために働いているとおっしゃった。私がきたむら師匠の画室に訪問した時に、きたむら師匠はオーストラリア人が描いた絵を彫って、印刷したばかりであった。印象的に、本当の写真みたいであった。それは他の昔の木版画との違いを表す。なぜかというと、江戸時代や明治時代に、芸術家は遠近法を使用しなかったそうである。それから、きたむら師匠は昔と同じの方法を使って、昔の芸術家が考えられないものを作った。それは本当に興味深い点だと思う。
他の面白い点はジィンダーの役柄だと思う。きたむら師匠の画室で木版画を習ることときたむら師匠を手伝うことのためにある女性もいった。江戸時代と明治時代に、見立てでは面白くなりたいためによく女の人が男性の仕事をやっていたというイメージがあった。その以外、女性は木版画家にならなかった。だから、この女の人は木版画を習っているところだったので、現在の木版画と昔の木版画と他の違いを表す。また、きたむら師匠は外国からの学生が欲しいとおっしゃった。上に書いた通り、江戸時代と明治時代に、日本の政府は外国人との接触を限定をした。それから、木版画のような伝統的なことを外国人に伝えるのはすごいと思う。
その旅行中、もう一つの画室に母と一緒に行った。この画室はビジネスのための印刷をする場所であった。あそこで、ひらいきょこという印刷者がたくさんことを説明してくれた。初めに、この画室はたいてい古いイメージを印刷し直す。例えば、広重師匠の有名な横浜市を表している絵の一つを取って、同じ線を使って、新しい刷を何枚も作る。作った後、お土産のようなものとして売る。この印刷し直したものは色々な店で売っている。そのような店は吉祥寺にもある。この活動は昔に中心だった傾向を表すと思う。
次に、ひらいさんについて紹介したいと思う。なぜかというと、本当にユニークな女の人だからである。まず、ひらいさんは芸術家になるために大学にお入りになった。ところが、一緒に話した時に芸術を作るということをあきらめたとおっしゃった。ひらいさんによると、印刷する仕事は足りているからだそうである。つまり、いつもの通り仕事で男女の関係がある。他の面白い点の一つはひらいさんのジィンダーである。ひらいさんもこの点について教えて下さった。ひらいさんによると、当時に、三人の女性の印刷者しかいなかったそうである。また、一人は赤ちゃんを育っていたので、印刷する仕事をやめた。この状況は二つのことを表すと思う。一つ目は、やはり、昔と違って、現在に女性は木版画家になることができる。二つ目は、ジェンダーの制度はまだ大きくはかれらなかった。なぜかというと、女性の師匠の数は少ないからである。
他の現在の木版画に関するの経験は先月におだきゅというギャラリーに行ったということである。あそこ、現在の創作版画を見た。浮世絵と同じで、よく富士山がその絵で出た。しかし、芸術家の富士山の使い方はぜんぜん違ったと思う。例えば、ユーンミ・ナムという芸術家の絵の中で、富士山はインスタントヌードルの入れ物の中に乗せていた。他の違いはこのギャラリーで、皆芸術家は外国人であったことだ。最近に、木版画は本当に国際的になっていくと思った。
まとめると、木版画の目的は仏教を広めるから、個人的に創見を表すまで成長した。木版画のテーマは宗教から、機械化を探るであるまで成長した。一枚の絵を作るために、一つ刷から、百の刷まで成長した。木版画は生まれた時からたくさん変わった。しかし、人々はまだ、この古い方法を学んでいるので、木版画はまだ有意義だと思う。