日本では、色々な宗教が共に共存していることが、文化の特徴の一つであるそうだ。その理由の一つは、日本に昔からある神道について考えてみれば分かるかもしれない。神道は多神教で、宗教的な考え方を伝えるために、経典の代わりに儀式からの経験に中心しているという宗教だらしい[1]。日本人は様々な宗教の行事に参加する。例えば、同じ人は毎年神道の初詣を行うが、結婚する場合、キリスト教の結婚式を行うという現象があるそうだ[2]。このレポートでは、「あらゆるところに神様が存在する」という日本人の宗教意識について考える。
まず、神道の信者は神社に祈りに参る。神社は日本でどこでも見つけられる。自分の経験から、この仮説を裏付ける例を発表したいと思う。一つ目は、冬休みの前、色々な友達と一緒に高尾山にのぼった時のことだ。私は道中に何度も立ち止った。なぜなら、道中そのものが神社であり、そしてその神社を見たかったからなのだ。昔、神奈備と呼ばれた所と同じように、その神社のある所は山だったのだ。ちなみに、神奈備というのは宗教的な儀式を行っていた山や森のことだ[3]。二つ目は、冬休みのうちに、他のミドルベリーの大学生と一緒に東京タワーを見に行った時のことだ。びっくりしたのは、東京タワーにも大神宮があることだった。神社は自然や町にどこにでもあるということを経験した。このことから、神様も自然や町にいるということが分かった。
次に、神道で生き物だけではなく、生きではない物も命を持っているということが分かってきた。この仮説を裏付ける例を二つ発表したいと思う。一つ目は、同じ高尾山にのぼった時のことだ。道中に神社のそばにある狐型彫像を見かけた。びっくりしたのは、像は生き物ではないのに、その狐の像は赤い服を着ていることだった。日本人の友達によると、その狐の像は稲荷狐と呼ばれるそうだ。また、他の友達によると、赤は魔よけの意味があるそうだ。興味を持ったので、もう少し神社の像について研究してみた。その狐の像は神様の使者だそうだ。ちなみに、ライオンみたいな像は狛犬と呼ばれていて、神様を守るために配置されているらしい[4]。二つ目は、日本語の授業のため、『雪女』という民話を読んだことだ。この話の中で生きではない物も命を持っているということに関しての点は雪は女の妖怪を持っているということだ。つまり、この擬人法と像の服は日本人の意識に関する面は全部が命を持っていることを表す。このことから、日本人は全部の物が命を持っているのように考えるということが分かった。
次に、お正月の時に、同じ寮に住んでいる女の人と一緒に明治神宮に参った。あそこでおみくじを買った。おみくじというのは自分の吉凶を占うための籤だ。おみくじをもらうために、入れ物から棒をとり、棒の上に番号が書いてあった。その番号によって、書いてある吉凶が違った。この経験とおみくじについての研究から、印象的なものや特定的に宗教に対すること以外こと神道と宗教的な関係もあるということが分かった。この仮説を裏付ける例を発表したいと思う。一つ目は、日本人は神様からメッセージをもらうために、紙の上に言葉が書いてあるものを買うということだ。神様から知識をもらうために活動なのに、無感動な材料を使用する。これから、印象的ではないものは神様と関係があるということが分かった。二つ目は、おみくじの籤の言葉は日本で書くが、おみくじそのものはネパールで作るらしい[5]。神道はぜんぜんネパールと宗教的な関係がない。これから、神道は特定的に宗教に対することと関係がないということが分かった。
最後に、初詣のため、同じ友達と一緒に鶴岡八幡宮に参った。四時午前だったのに、私達が歩いていた参道は混んでいた。木が立っていて、きれいな電気もあった。びっくりしたのは、鶴岡八幡宮鎌倉から、反対側に歩いていた。興味があったので、私達は同じことをした。ついに、海辺に着いた。海辺で鶴岡八幡宮鎌倉そのものより人が多かったのだ。他の人と同じように、初日まで待って、海や鳥や富士山を見た。その経験から、宗教的な感じをもらった。他の人もそのような感じがあったかもしれない。神道は経験から意識をあげる宗教なのだ。これから、神様はしか神社にいないということが分かった。
まとめると、神社が自然や町にあり、生き物ではないものが命を持ち、印象的なものや特定的に宗教に対すること以外こと神道と関係もあり、神様が神社以外の所にもいるということが分かったのだ。これから、日本人は神様があるゆる所にいるということを信じると思う。そのため、色々な宗教が共に共存している状態がある。それから、東京の回りに冒険している時や国際基督教大学で勉強している時に日本人の宗教的な意識を心がけようと思う。